2020.07.31. 社会的にアウト

今年の担任が本当に合わない人で苦労しているのだが、日々わたしは担任との意見の相違を感じている。小さなことでは今日掃除をやるべきかやるべきではないかとか、今の時間に立ち歩いていいのか悪いのかとか。わたしは担任の思考を理解しようと必死なのだが自分の考えることのほうがより効率的だと思うし周りの友人にわたし意見を言ってみればそれに賛成してくれる友人も多い。クラスメイトも担任と合わない人が多数いて、友人同士で意見を交わしたりしている。

先日は授業内で長文の書き写しをしていたのだが、担任は不必要な雑談して集中している生徒に向かってしょうもないことで問いかけをしたり同意を求めたりした。わたしを含め、友人たちはそれにいらいらしていてわたしも集中を切らしてしまったために、わたしは挙手をして「集中できないので少し静かにしてもらえませんか」と言ったら担任は生徒たちのせいにしたのだ。生徒たちに非があるように発言したのが許せなかったとは言えその場は静かになり集中をしやすい環境になった。担任はうるさくしていても気にしていなかったしわたしは静かにしてもらわないと集中ができなかったのだ。そういう「意見の相違」が日常に溢れるようになり、少し大変だ。

今日の担任の授業でとある映像を観た。担任の担当科目は技術であるためある国を例に挙げてメディアの使い方の例としてこの映像を観せられたのにも関わらず最終的に国の主権を握った人間は悪い人間だという結果をわたしたちに突きつけ、学習プリントには「国の主権者がどれだけ悪い人間であったか、それを感じどう思ったか」を書くことになった。わたしは完全に最初の目的とは違う結果を書かされることになったことに違和感を覚えた。また、その映像は音楽や映像を駆使していかにその国が酷いことをしたかということを過大に表現しているとわたしは感じ、このような演出を加えるのは題材が可哀想ではないかと思ったのだ。

わたしの過大表現に対する可哀想という気持ちが一般的な回答に当てはまらないことはわかっていた。普段から一般例ではない思考回路を持つことは重々承知している。けれどわたしはこう思ったことに変わりはないし思ったことを書けと指示されたから、そのまま、一般的な回答に当てはまらない回答を書き込み提出した。

後日の授業で提出したものが返却された。評価を上げたい者は内容を書き足して再提出しなさいという理由だった。わたしの手元に返ってきたプリントにはC°の評価とともに「この国の権力者は悪者です。理解していますか?(意訳)」という書き込みがされていた。

理解しているのだ。理解しているからこそ一般例ではない文章をあの欄に書き込んだし理解しているから可哀想だと思ったのだ。「理解していますか?」じゃねえよ。ふざけんな。

その後わたしは担任に「この意見はわたしの意見であるから変えたくない」と言いに言った。そうすれば担任は「題材は悪いのだ。悪いものを肯定するな(意訳)」「この回答は社会的に公表できない。クラスに公表できないものにはいい評価はつけられない」と言われた。

このクラスであんな文章を書いたのはわたしだけだと思う。だからわたしの回答は間違いの中でもみんなの役に立たない間違いなのだ。それなのにも関わらずプリント返却時にクラス全員に向かってわたしの回答を許可も得ず間違いの例に挙げて発表したのだ。これはクラスに公表したということではないのか。

わたしの回答は社会的にアウトなのだろうか。わたしの思考回路は、社会的にアウトなのだろうか。わたしの思考回路は社会に一石を投じてしまうような、弾かれるべきであるようなものなのだろうか。わたしの思考回路を否定されるのはわたしの人間としての能力を何個も殺しているようなものだ。

担任はきっと「これは悪いものだ」と言われて見せられた映像から「これは悪いものです」と考える構図を作りたかったのだろう。わたしはその構図を飲めなかったし担任の意図通りに回答を書くことができなかった。これはいけないことなのか。


わたしはわたしをわたしらしく生かしたい。いまそれができているかどうか分からないけれど、そうしたい。

けれど、わたしの思考は社会的にアウトなのだろうか?わたしは、社会的にアウトなのだろうか?

わたしはいつか、わたしの思考を一番理解して、胸を張って生きていきたい。

2020.06.26. 友人が素敵なことをしていた

去年からその友人とは同じクラスで出席番号が前後なのだが、友人はめっちゃいい人である。どこがどういい人なのかは正直うまくわからないがめちゃくちゃいい人である。いい人だと思う。

友人とわたしは連絡先を知らないし学校以外で会ったことはない。部活が同じなわけではないし、側から見たら普通の男子なのだがめちゃくちゃにいい人だ。わたしの話を聞いてくれるし聞き流してくれるしわたしが馬鹿みたいに気に病んでいることを鼻で笑ってくれるしちょうどいい距離感を保っている。

そいつはときどきわたしに素敵なことをしてくれる。ふざけて嫌がらせのように毎日おはようの挨拶をしていたら友人から挨拶をしてくれるようになったりわたしはしていなかったじゃあねの挨拶もしてくれるようになった。人間としてできているんだと思う。わたしが不安に苛まれて自分でも引くぐらい落ち込んでいるときに八つ当たりで軽く友人を叩いていて(全然強くないおふざけのノリのあれ)手で応戦するようになってきたと思ったら手をぎゅーっと握ってくれる。あの行為は本当にわたしにとっての精神安定剤である。手を握らなくてもハイタッチをしてくれる。人の肌に触れると安心すると聞いたことがあるけど本当に安心するのだ。ちなみに友人の手のひらは女のわたしの手のひらよりやわらかい。

でも今回の素敵なことはなんだか本当に素敵だと思った。別に他の素敵なことが素敵ではなかったわけではないが、なんだか小説みたいだと思った。

わたしは委員会に所属していていまは委員長を務めている。委員会が好きだったからだ。友人は他の委員会に所属しているのだが委員長になったそうだ。友人もその委員会が好きだと言っていたし委員会に所属することは当然だろうくらいの感じ方をしていたが委員長になるのは意外だった。友人は目立ちたがりではないし人前に出ることを敬遠するようなタイプだったからだ。ふざけてわたしは友人に委員長をやれよと唆していたが本当になるとは思っていなかった。けれど友人は「やる人がいなかったから」と言っていて彼らしいなと思ったのだが、その委員会の担当の先生に聞けばわたしが委員長をやるからという理由で就任したらしい。わたしはそれを聞いて泣いた。何が嬉しかったとかそういうのがあまりなくて、ただ彼が「わたしが委員長をしているから自分もなった」という決断の仕方をしているのがすごく素敵だと思ったのだ。

友人にこの件を言うつもりはない。友人はありがとうを言うだけで照れるような人だからきっとこんなこと言われたら彼の顔から火が出るし、それを見たわたしの顔からも火が出る。でも1番の理由はわたしが言うということがわたしの美学にも彼の美学にそぐわないと思うからだ。彼はわたしのいないところでそれを言っていたしわたしは彼のいないところでそれを聞いたのだから、それを聞いたと言い素敵だなと思ったよなんて言うのはダサいと思う。

違うことでもわたしの知らないところで友人がわたしをきっかけにしてくれていたらわたしはきっともっと嬉しい。だってわたしは彼の知らないところで彼をきっかけにしていることがあるから。

2020.05.25. わからない

母がわたしに、「友人ふたりのお母さんからLINEがきた。わたしが早めに終わらせていた課題を今頃やり始めているという内容だった」ということを話した。わたしはそのとき正直ふーん、としか思っていなかったし、わたしは違う課題がまだ残っていたから、なんなら課題が残っている人がいることに安心した。

母はそれを話しながら笑っていた。笑うというより嗤うように感じた。

話はそれだけで、そのあとに「あんたもちゃんとやりなさいね」と言われるかと思っていたらそんな言葉もなく、思い切って「それでどうしたの?」と聞いてみてもそれだけだった。ただ笑っていた。

母には少しそういうところがあるように感じる。うまく言葉にすることはできないけれど、そういうところがある。きっと母には「熱い」「冷たい」、「甘い」「苦い」、「良い」「悪い」のように、両極端のふたつしかないんだと思う。だからきっと、わたしがその課題を「終えていた」ことと友人が「終えていない」ことを比べて笑ったんだろう。わたしは笑っていた意味がわからなかったし、好きな友人たちがわたしの済ませていた課題が終わっていなかったということだけで笑われたことが気に食わなかったし、友人たちを笑うのであればわたしのことも笑うべきだと思った。

それはわたし以外の他の人に対してもそうだ。職場の「好き」な人と「苦手」な人をきっぱり分けて、「好き」な人とはよく話したりご飯に行ったりするらしいけれど「苦手」な人のことはとてつもなく避けるし陰口をよく言う。まぁ別にこれは誰でもするし、わたしだって苦手な人とはあまり一緒にはいたくない。けれど「好き」な人がミスをしたときにきっと母はどうにかして「苦手」な人に元はと言えばとその理由をこじつけていた。

だから、少し怖い。わたしがなにか母の「苦手」なことをしてしまったら、わたしが母の「苦手」のカテゴリーに分類されてしまうのではないかと少し怖い。今回笑いながら話していたことの意味がわからないと聞いたら「苦手」に分類されるだろうか。

あのとき友人たちに同情して、「わたしも終わってない課題あるから」と言い切ればよかったのだろうか。それとも今のように何も言わずに聞いていればよかったのだろうか。わたしには正解がわからない。母にとっての正解も笑った理由も母のカテゴリーの分類のしかたもわからない。

2020.04.01.

わたしのなんでもない日記。

 
 
はじめてみようかな、と思ってわたしにとっては驚くほど速いスピードでブログを開設した。
 
もともとわたしは優柔不断だ。長子は優柔不断だとよく言うけれど本当にそうだと思う。大好きな文房具を買うかも、ファミレスでどのメニューを頼むかも、買いたいと思った洋服の色も、なにもかも、人一倍時間をかけないと決めることができないし気が済まないし。それを直したいと何度も思うけれどなかなか直らないことが事実で。でも今回はいつもよりもずっと速くこの決断をできたなって思う。
 
 
ブログのタイトルは『葉』にした。開設しようと思いついたときにタイトルは漢字一文字にしたいと思ったから。世の中には素敵な漢字がたくさん浮かんでいて、それをひとつだけに選んでタイトルにすることは他の漢字に失礼かなとも思ったけれどこうした。
日記ひとつひとつが葉っぱになって、最後に、このブログをいつか削除するときに、樹のようになっていればいいなと思ったから。本当は『樹のように』の『樹』も、『木』にしようか迷った。優柔不断だ。
『樹』は私の幼馴染の名前に使われている。小さな頃からその漢字が美しいなと思って羨ましかったことを覚えている。『樹』のバランスがすごく好き。すごく幼馴染に似合っている。
ブログのタイトルのことに戻ると、『葉』の他にも『悠』とか、それこそ『樹』とか、そういうものと迷った。なんだかここで表示した『悠』と『樹』に申し訳なくなってきたから意味をしっかり調べてみようと思う。
悠…ゆったりと落ち着いたさま。
樹…①木質の幹を有する植物。低木と高木に分ける。木本。樹木。たちき。②製材した材木。木材。③(普通「柝」と書く)芝居や相撲などで用いる拍子木。開幕・閉場などの合図に用いる。
やっぱり素敵だなぁ。『悠』も『樹』もありがとうね。『葉』にはあなたたちの意味も込めてあるからね。『葉』。これからよろしくね。
 
 
4月1日。カレンダーアプリを眺めていたら応援しているふぉ〜ゆ〜が9歳のお誕生日を迎えていたことに気づいた。私がふぉ〜ゆ〜のお誕生日を「お誕生日だ」と意識して過ごすことははじめてでなんだかわくわくする。ついでに、と開いた記念日アプリを眺めていれば応援している吉澤閑也くんがお仕事を始めて4000日が経っていた。閑也くんはふぉ〜ゆ〜には入っていない。お互いにお互いのことはちゃんと知っている関係だけどいつもは一緒に活動しない。なのに記念日が重なるなんて奇跡だなぁとときめいた。
お祝いにケーキくらい食べたいなぁ。
 
 
昨日、今月中に観に行く予定のあった舞台、『ジョセフ・アンド・アメージング・テクニカラー・ドリームコート』が休演になった。寂しい。お目当ての方以外にもたくさん観たい演者さんがいたから寂しいけれど、こんなご時世だから嫌だと嘆くことも自粛しなくちゃいけないかな。寂しいな。
 
 
他に何か書きたいことあるかな。始めようと意気込んだけれど、書こうと思って思い出そうとしてもなかなか浮かんでこない。
 
 

年明けから始めた舞台用のノート。観劇したときの感想とか情報解禁日にほぼ日手帳のように記録している。48ページのMDノート ライトの新書サイズを使っているけれど意外とすぐに一冊使い切れた。今は2冊目に突入している。

これに記録することを習慣化したら去年よりもっと作品について考えることができるようになったし驚くほど作品について今も覚えている。

このために新しいマスキングテープやボールペンを買うとわくわくするし綺麗にデザインできると何度も見返したくなる。わたしは文字をたくさん書いてしまいがちだから後から見返すとノートが真っ黒になっていることもあるけれど、それもそれでいいやと思う。ロゴを模写することも楽しいからすごく書いていると気持ちが充実する感じがするしスッキリする。

これを記していることを馬鹿にされたこともあるし引かれたこともある。

今はまだそれをスルーすることができないけれどそれができるようになればいいなって思う。

 

 

今日からまた新しい生活。

わくわくの気持ちを切らさないようにしよう。